ルネ・ラリックについて

STORY OF LALIQUE

ジュエリー作家とガラス工芸家 ルネ・ラリック(1860-1945)の生涯

ジュエリー作家とガラス工芸家
ルネ・ラリック(1860-1945)の生涯

16歳で宝飾職人に

ラリックは1860年、フランス・シャンパーニュ地方のアイという小さな村に生まれました。幼少よりアイ村の豊かな自然に囲まれて育ち、家族がその後パリに引越した後も、バカンス(夏休み)のたびにこの村を訪れていました。幼少期は風景をスケッチして絵はがきにしては、となり村で売りおこづかいを稼いでいました。

1876年、ラリックが16歳の時に父親が亡くなり、母の勧めで宝飾職人に弟子入りをするという転機が訪れます。

その頃のパリはオペラ座が完成し(1875年)ラリックは、見習いの時代から晩年まで、オペラ座やルーヴル美術館の近くを制作の拠点としました。

1900年パリ万博にてブレイク

1900年のパリ万博にてラリックの斬新なジュエリーは大好評となり、連日展示ブースは大盛況に。

ショーウィンドウには、現在、箱根ラリック美術館に展示されている「蝶の女」がありました。

ヴァロットン作、ラリックのブースに詰めかけた人々を描いた版画でも、その盛況ぶりがうかがえます。

ショーウィンドウの装飾
蝶の女
ラリックのウィンドウを描いた
ヴァロットンの版画

パトロンたちのサポートで
制作活動が軌道に

ラリックのパトロンであったアルメニア人の石油王グルベンキアンは、万博で展示された作品をコレクションした。

また、フランスの大女優サラ・ベルナールもラリックのファンで、舞台で使う王冠などの小道具から、自身が身につける宝飾品までラリックに制作を依頼するなど、文化人たちからのサポートもあり、ラリックの制作活動は軌道に乗っていき、世間の注目を集めるようになりました。

ジュエリー作家から
ガラス工芸家へ

ジュエリー作家からほかの道を目指そうと模索をしていた時、ヴァンドーム広場のラリックの店舗の近くに店舗を構えていた香水商コティに仕事を依頼され、香水瓶のラベルデザインを手がけました。

ところがラリックは香水瓶自体も作らせて欲しいと売り込み、香水瓶「シクラメン」(ミュージアム展示中)を作り上げました。

その後、次々とガラス作品を発表し、1912年以降はガラス工芸一筋に。

溢れる才能は
より大きな空間へ

香水瓶、花器をはじめ壁面装飾パネル、シャンデリアなど、室内空間装飾をも手がけるようになり、パリと南仏を結ぶ「コート・ダジュール」号として制作された、列車の室内装飾も行いました。

この列車はラリックのガラスパネルで埋め尽くされ、後にオリエント急行として使用され、1988年には日本の線路も走りました。

現在、オリエント急行として箱根ラリック美術館のカフェ・レストラン棟に設置してあります。