ゆらめく柔らかな光と、幻想的なラリックの装飾。
この車両だけで、150枚以上のガラスパネルが室内に貼りめぐらされています。
車窓からの自然光や室内ランプなど、昼夜の光を巧みにあやつり、空間に無限の広がりを与えています。
ラリックがこの列車の室内装飾を制作したのは、1928年、68歳の時です。
ラリックはその頃、ガラスを使った空間装飾に挑戦していました。
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ル・トラン内の装飾パネル 「彫像と葡萄」1928年
ブドウと男女の像が浮き彫りにされたパネルは、豊かな実りを象徴しています。
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ル・トラン内の装飾パネル 「花束」1928年
ラリックの娘スザンヌがデザインした花束のパネルは、車両の個室内で見ることができます。
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ラリックの豊かな感性と斬新な発想で、どのような空間が生まれたのでしょうか。
ここでは、ラリックがチャレンジした空間演出の業績の数々を、ご紹介いたします。
旧ラリック邸外観 1902年
ラリックが最初に手掛けた建築装飾は、1902年にパリに建てた自邸です。玄関ドアのガラスパネルに描かれた森の様子が、光を通して浮かび上がります。
噴水塔「フランスの水源」1925年
1925年のアール・デコ博覧会で人々を驚かせた、高さ約15mの巨大な噴水塔。16種類のガラスの女性像を、全部で128体も積み上げ、光と水で演出した作品です。
カーマスコット「トンボ」(1928年)を装着したブガッティ57Cヴァントー
ガラスの繊細なイメージを打ち破るかのように、車の前方にどっしりと構えるカーマスコット。ラリックは1920年代、時代の象徴でもある自動車という最新の移動手段に目を付け、ガラスのマスコットで通りを彩りました。
ル・トランの車両内。
天井のランプ・シェードもラリックによるものです。
豪華列車だけでなく、国の威信をかけて作られた豪華客船の内装も、ラリックは手がけました。光を巧みに操るラリックのガラス作品は、非日常空間を作り出すのに最適だったのです。特に、1935年に就航した「ノルマンディ号」の一等大食堂は、巨大なシャンデリアや燭台などのスケールや豪華さがケタ違いで、ラリックのインテリアの集大成といえる仕上がりでした。
芸術と公共性を兼ね備えたラリックの創作意欲は、最終的に生と死を司る教会建築にまで及びます。色とりどりのガラス作品ではなく、シンプルな単色使いにこだわったラリックは、ステンドグラスもクリアガラスや黄色一色で制作しています。それによって、ガラス本来の美しさを際立たせ、神聖な空間を究極なレベルにまで引き上げました。
数々の室内装飾を手掛けたラリックは、フランス大統領専用車両でも装飾を担当するほどの信頼を得ていました。それらの作品の中でも、箱根ラリック美術館のル・トランの車両は、豪華さと洗練された空間で群を抜いており、今も色あせることのない輝きを放っています。
1929年、パリとフランス南部を結ぶルートとして開通したのが、「コート・ダジュール特急」です。
当初、ル・トランの車両は、この路線で活躍していましたが、やがて運行を休止します。
その後、オリエント急行の路線で復帰を果たし、2001年まで現役で活躍し続けました。
そして2004年4月、最後に箱根へとやって来たのです。
箱根を目指して運ばれるル・トランの車両。
富士山を背にした瞬間です。
オリエント急行の名の由来は、終着駅イスタンブールをアジア(オリエント=東洋)への玄関と見たててつけられたものです。航空機に押されて一旦は幕を閉じましたが、NIOE(ノスタルジィ・イスタンブール・オリエント・エクスプレス)が1976年に、VSOE(ヴェニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス)が1982年に運行を再開。以来、走行路線の別なく、オリエント急行の名で親しまれています(NIOEは、その後運行を休止)。
アガサ・クリスティやマレーネ・ディートリッヒなどの有名人や各界の著名人も満喫したほど、オリエント急行の旅は人々に忘れえぬ思い出を残してくれているのです。
4158 E 車両データ
全長 |
23.45m 幅 3m 高さ 3m |
パリ=ニース=ヴァンティミーリア(伊)間を運行 |
重量 |
空車時50t/運行時52t |
ラリックのガラスパネルは、1928年制作 |
客席数 |
28席 |
室内の木部分は、マホガニー製 |